町の中心に石造りの古い塔があった
塔の展望台の真ん中に小さななのぞき窓があった。
のぞき窓の中は望遠鏡のような構造になっていた。
望遠鏡をのぞくと、遠くを見渡せるわけではなかった。
なんと不思議なことにその人の未来が見えるのだった。
*こんな夢で、ぼくはその望遠鏡から自分の人生を見た。
どんなだったかなぁ、すっかり忘れた。
どうせろくでもない終わり方だしな。
乳休みの板
「たるを知る」なんて、よほどのことがないと、その境地にいたらない。
満たされない心はいつまでも満たされない。
以前、マンションのフロントの仕事をしていた時、入居者の引っ越し作業がの打ち合わせで若い女性の業者がフロントにきたがことがあった。
見た瞬間思った。デカイ。どこが? 乳だった。
ゆったりとしたユニフォームからでも、その大きさが見て取れた。
彼女の胸のふくらみの下はちょうどフロントの板の高さと同じだった。受付簿を差し出すと、彼女は身を乗り出した。その時、ぼくは見た! 乳とそれを支える胴体の間には見事に隙間があった。それは
彼女の乳はフロントの板にノッた。
のであった。
ああ、こういうこともあるんだな、と思った。彼女はどういう感じなんだろう。少し体が軽くなるんだろうか。
元旦の7時から仕事だった。昼には聖イグナチオ教会に寄って
夕方は真言宗のお寺さんに初詣。お坊さんの般若心経を聞かせてもらった。
いつも誰かに手を差しのべたいと思っているのに、心の奥では救われることを期待しているのかもしれない。
通り道に神社があったら、きっと立ち寄って見よう見まねでお祈りをしていたのだろう。
これでは救われない。わかっているのだ。けれど救われない未来に正直に向き合っていることは確かだ。
存在の耐えられない軽さ
おいらの判断はおそろしく軽い。1グラムもない重さだ。あとさきも考えない。
お花畑に花が咲くのをじっと待っている。今では100キログラムの後悔を抱え込んでいる。(このくらいの重さなんか全然へっちゃら)
主人公はもっと軽くて生死の壁もひょいと乗り越えてた。
レビューはアマゾンにおまかせね。
魯迅の孔乙己(コンイーチー)
魯迅の孔乙己(コンイーチー)を最初に読んだのは中学校の教科書だ。以来、目標としている小説となっている。一杯の酒を求めて孔乙己が店にやってくる。ただそれだけの小説なのだが。。。そこに絶望とか不条理とかを感じるのは、人それぞれ。ぼくはただただ感心してしまった。
「笑われてもなお」。
「落ちぶれてもなお」。
「石を投げられてもなお」。
いいことである。
失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI
あなたは、いい匂いがする、というと、「それヘアスプレーだから」と私を笑う。あなたから香る匂いは、あなた自身であって、あなたがつけている何かではないょ。しっかし、いい匂いがするなぁ。
マドレーヌからはじまる匂いの記憶の旅は細部に細部に突き進む。ヘアスプレーとマドレーヌの違い? わからない。出版社はこんなふうに紹介している。
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ひとかけらのマドレーヌを口にしたとたん襲われる戦慄。「この歓びは、どこからやって来たのだろう?」 日本の水中花のように芯ひらく想い出――サンザシの香り、鐘の音、コンブレーでの幼い日々。プルースト研究で仏アカデミー学術大賞受賞の第一人者が精確清新な訳文でいざなう、重層する世界の深み。
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論文で語ると2ページくらいで済むのに、プルースト先生は何千頁が必要だった。それ、すごくわかる。感動は何千頁のほうにある。
あなたとの過去は存在しない。記憶は300年前に遡るかもしれない。
つげ義春: 夢と旅の世界 (とんぼの本)
ぼくが「つげ義春」と出会ったのは、友人の6畳の部屋だった。友人とはアルバイト仲間で家も近かった。その内、その友人は大学(都立大学)をやめてしまって、引っ越した。多分それ以来会っていない。今、何をやっているのかもわからない。大学に通えるなんてうらやましい、と思っていたので、彼に何が起きたのか判らなかった。この年になると、「何が起きたのか」の「何」というのが、実は自分では制御不能であることがわかる。
彼の名前をフェイスブックで検索しても、ひっかからない。毎年年賀状が届く。それでも何をやって生きているのかわからない。ぼくは無精で、彼から年賀状が届いてから、年賀状を出す。それでも毎年届く。生きている、とほっとする。「いいね」ボタンとはちょっと違うかな。。。