「東京でマス釣り」の下書き

世界まぼろし協議会だより

須賀敦子のことを『忘れていた』。

この『忘れていた』という言い回しをぼくの好きな作家たちは頻繁に使う。だから、ぼくも使ってしまう。他にどんな言い方があるのか?

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人生には様々な困難な問題が立ちはだかってにっちもさっちもいかない時がある。今のぼくがまさしくそのような状態なのだが、ぼくにも逃げ場がある。例えば、この須賀敦子がそうだ。彼女もまたにっちもさっちもってときがあったようだ。そして、そのあとに道が開けた。
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須賀敦子は五十歳すぎてからだろう。だから、彼女の書く文章はすべて思いだしたものを今(といっても故人である)というフィルターを通して表現したものになっている。例えばそれはこんなふうだ。
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湾を大きくカーブしてヴェネツィアへむかう列車の窓から、海のむこうに遠ざかるトリエステを眺めて、私は、イタリアにありながら異国をを生きつづけるこの町のすがたに。。。。
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忘れていた、過去は今を生きるひとり一人の手許に何かを持ってくる。

 

Trieste