「東京でマス釣り」の下書き

世界まぼろし協議会だより

直子という名の女性   片岡版も村上版も

片岡義男を読み始めたのは二十歳からだ。大好きだった女の子の影響だった。話題についていく、ただそれだけのために読み始めた。当時、東横線の新丸子に住んでいて、3つ先の駅の自由が丘でコーヒーを飲みながら、読んだ。大好きな女の子が偶然に通りかかるのを待っていたりもした。もちろん、偶然はなかった。
大好きだった女の子には完全に振られた後も、片岡義男を読み続けた。出版される本は片っ端から読んだ。
今、その当時読んでいた文庫本の多くは絶版になっている。
大好きな女の子は40代の男性に体のあちこちをいじられ、完全に女になっていた、と後で聞いた。
ぼく達がかなりの大人になり、受け入れ態勢が整った頃に片岡は「東京青年」を書いた。誰が誰を大人にしてしまうのか、それは不思議な感覚だ。
引用という形で片岡義男の文章を載せる。

東京青年 (角川文庫) [文庫]より
-----引用初め
「裸になって」
 さきほどとおなじ言葉を、直子は繰り返した。そして彼のかたわらへ優美にしゃがんだ。彼はスラックスを脱ぎ、足もとに落として両足をそこから抜いた。強烈な勃起が、どうすることも出来ないまま直子の目の前にあらわになった。
------引用終わり

普段の片岡作品には、上のような文章はないのだけど、彼が「勃起」とかけば、彼なりの勃起になっている。(笑)だ。「直子」という女性の名も、村上春樹のとは「かなり異なる」と書きたいところだが、なーんか「直子」は直子だよね。かなり大人になっちゃってるけど、直子は古今東西上下左右、金太郎飴状態だ。

大好きな女の子は、本当に白いTシャツが似合った。いまでは、すっかり大人になっていて、「おばさん」などと呼ばれたりしているだろう。
しかし、ぼくはあまり大人にはなっていないようだ。そのおばさんに再会したらどうなるのだろう。どこそこの店で食事をしようとか、何がおいしいとか知らないし、ランチ、ディナーなんて行ったことがないので、頭に浮かぶデートコースは未知のものばかりだ。気のきいたセッティングはほぼ無理。
結局、こんなに大人になった今でも、手を引いてくれるお姉さんを待っている始末だ。

いつか「玲子さんという名の女性」とタイトルでも何か書こうかな。ちょっと違う文章になるんだろうな。