「東京でマス釣り」の下書き

世界まぼろし協議会だより

ぼくは漁師だったんだ。

レイモンド・カーヴァーの小説に「大聖堂」っていうのがあるんだけどさ。

 

7歳になった小型の漁師は、真夜中どうしてもオシッコを我慢できなかった。自分の寝ている部屋から便所(カンジョ)に行くためには、3段の階段を昇って、2階の廊下を通って、さらに1階に降りる階段を通る。その途中の出来事だった。両手を広げたキリストがいた。ここを通るな、と言わんばかりだった。腰を抜かして、後ずさりした。
17歳になった中型の漁師は、英語の授業を受けながら、うたたねをしていた。ふと気がつくと、ティンカーベルが肩に乗っていた。そして、目の前を飛びまわったり、手に乗ってきたり、腕に腰かけたりした。完全におちょくっている。
こういう話しは誰も信じないので、話さないできた。
レイモンド・カーヴァーの短編には他にもっといい作品がたくさんある。それは間違いない。しかし、この小説を読んで、初めてで、最後の体験をした。かなり前に漁師を引退していた30歳のぼくは驚いた。目の前に大聖堂があったからだ。まわりが暗闇だったり、昼下がりで寝ぼけていたわけではなかった。完全に正気だった。
妻を訪ねてきた盲目の男が、友人の訪問をさほど歓迎していない旦那に、テレビに放送していた大聖堂を一緒に絵に描くはめになるのだが(だったかな。本当にむずかしい)、
主人公はいやいやながらも、盲目の男のとおりにやってみる。本当にいやいや、なんだ。大聖堂のパーツを1つ、そして1つ、継ぎ足すように絵にしていく。
盲目の友人は「よく描けてる」と言う。
それは、今、ぼくの目の前に見えている大聖堂のことだった。
「よく描けてる」。盲目の友人が。。。目に見える、ということはなんなんだろう。
年月を経て、何度も読み返したが、あるいは何度か試したが、大聖堂は見たことがない。
キリストが「この先に行くな」と手を広げた先には、いったい何があったのだろう。今のぼくは2階から1階に降りる階段を一段一段踏み外しながら、転げ落ちていく途中なのだが。